島津斉彬公(しまずなりあきらこう)の銅像
Statue of Shimazu Nariakira
(幕末きっての開明君主)
島津斉彬公(しまずなりあきらこう)の銅像の場所
住所 鹿児島県鹿児島市照国町 照国神社
地図リンク
マピオンマップ GPS E=130.33.9 N=31.35.27
島津斉彬(しまづ なりあきら) 文化6年(1809年)〜安政5年(1858年)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主(在任:嘉永4年(1851年)
- 安政5年(1858年))。島津氏の第28代当主である。
第10代藩主・島津斉興の長男。母は因幡鳥取藩主・池田治道の娘・弥姫(周子)。
没後に贈正一位。神号は
照国大明神。
照国神社の祭神となっている。
薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人で
西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。
図はこの周辺の著名銅像散策用マップです。PCでご覧の方は、ポイントをクリックするとそれぞれのページ移動します。
NHK大河ドラマ篤姫では高橋秀樹さんが島津斉彬公を演じてらっしゃいましたね。
島津斉彬公(しまずなりあきらこう)についての詳しくは
Wikipediaなどを参照願います。
Shimazu Nariakira(en.wikipedia.org)
[写真はクリックすると別ウインドウで拡大します。]
〔 島津斉彬公(しまずなりあきらこう)の銅像 〕
島津斉彬公(1809〜1858)薩摩藩28代藩主
島津斉彬公は、文化6年(1809年)薩摩藩士の27代島津斉興公の嫡男として誕生なさいました。
母は鳥取藩主池田治道の娘賢章院です。
海外の文化に強い関心を示された曽祖父島津重豪公に可愛がられ育てられたため、斉彬公も海外の情報・文化に精通されるようになりました。
そしてアヘン戦争(1840〜1842)で、アジアの大国・清国がイギリスに敗れたことから西欧諸国の植民地政策を恐れ、斉彬公は、日本がひとつにまとまり、強く豊かな国づくりを目指すべきだとお考えになりました。
そして嘉永4年(1851)藩主になられると、鹿児島の礎に「集成館」という工場群を築き、ここを中心に、造船、製鉄、紡績、電信、ガラスなどの洋々な事業に取り組まれました。
また、人材育成のため教育などにも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げました。
斉彬公は安静5年(1858)、世を去られましたが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、弟の島津久光公やその長男忠義公、さらに西郷隆盛や大久保利通らの家臣の手で実現されました。
この島津斉彬の銅像と、隣接の探勝園内にある
島津久光公、
島津忠義公の銅像は、
大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883〜1964)によって作成されたものです。(現地案内板より)
【 島津斉彬公(しまずなりあきらこう)の銅像の写真 鹿児島観光 】
鹿児島市内銅像関連ページ
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