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島津久光公の銅像の場所 

住所 鹿児島県鹿児島市照国町
地図リンク マピオンマップ GPS E=130.33.9 N=31.35.29

島津 久光(しまづ ひさみつ、文化14年(1817年) - 明治20年(1887年)は、幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者。玉里島津家初代当主。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。
島津氏27代当主島津斉興の五男。生母は斉興の側室由羅。28代当主島津斉彬は異母兄。
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29代当主島津忠義は長男。次男久治は宮之城家、四男珍彦は重富家、五男忠欽は今和泉家をそれぞれ相続した。曾孫に香淳皇后。玄孫に今上天皇。

右図はこの周辺の著名銅像散策用マップです。ポイントをクリックするとページ移動します。
NHK大河ドラマ篤姫では山口祐一郎さんが島津久光公を演じてらっしゃいましたね。
島津久光公についての詳しくはWikipediaなどを参照願います。 Shimazu Hisamitsu (en.wikipedia.org)



島津久光公の銅像 01 島津久光公の銅像 02

島津久光公像 Statue of Shimadzu Hisamitsu




島津久光は島津家第27代斉興の第5子としいて文化14年(1817)鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。
第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。
文久2年(1962年)、斉彬の遺志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。
江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件がおこりました。
その後、公武合体運動を進めますが、思うように進まず、ついに倒幕へと向かいます。
明治以降になると、明治6年(1873年)に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳との対立もあり、明治8年(1875年)には辞任して鹿児島へ帰郷し鶴丸城二の丸に入りました。
しかし西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。西南戦争後は、二の丸も焼けたため、第27代斉興が建てた玉里邸を再建して隠居。晩年は歴史書編纂に努めました。
明治20年(1887年)に70歳で病没し、国葬により福昌寺墓地に葬られました。
この際に玉里邸の黒門から国道までの新しい道路がつくられましたが、この道路は「国葬道路」と呼ばれていま
す。(現地案内板より)

この探勝園内にある島津久光公、島津忠義公の銅像および隣接する照国神社側にある島津斉彬公の銅像は、大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883〜1964)によって作成されたものです。

島津久光の写真 → (近代日本人の肖像)


 
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