隼人塚(はやとづか)
大正10年3月3日 指定
指定理由:古事記・日本書記・風土記等に記載されている古代南九州の住民のクマソ・隼人の反乱(隼人の反乱は養老4年・西暦720年)に関係のある史跡として指定された。
遺跡の面積:376u
遺跡の内容
遺構:高さ約3mの丘の上に多重石塔3基(東・中央2基は軸部3重目まで西塔1基は1重目まで残存)、四天王石造4体(2体は胸部まで埋没、向かって塚左前面に立ち、塚上部右1体は足首以下を自然石で補足)が立っていた。
平成11年3月 石塔3基とも五重塔に復元
平成11年12月 四天王石像4体復元、石塔四方に配置
塚本体も楕円形から方形に復元された
建立の年代 従来の説
- (1)和銅元年(708)説
大和朝廷に反抗し,殺された熊襲・隼人の霊を供養するために建てられたという古文書・伝承等に由来するもの。(正八幡宮関係文書)
- (2)平安時代後期説
形態が似通っている大隅国分寺跡(国分市)の六重石塔に彫られた年号の康治元年(1142)に近
い頃造られたという説。
- (3)寺跡説
隼人塚は正国寺という寺の跡で,正宮(鹿児島神宮)の戒壇所と名付け,放生会(浜下り)の神事があったと伝える。(三国名勝図会) この正国寺の跡地は,国分尼寺の跡ともいわれる「鹿児島県史」(昭和14年・1939)。
- (4)寄せ集め説・移転説
明治初年の廃仏毀釈により壊された石塔・石像を,その後,付近から寄せ集めたものという説。また『三国名勝国会』(天保14年1843)には国分市重久に「隼人塚」があると記され,そこから移転したという説。
発掘調査や修復の結果により分かったこと
- (1)隼人塚の石塔は,もともと今の場所に3基立っていた。東塔:西塔とも高さ・大きさがほ
とんど同じである。3塔は当初から1体となった設計プランで建造された可能性が非常に高い。
- (2)建造年代は奈良時代(700年代)ではなく、平安時代(1000年代)であろう。
建立の目的 供養塔説
養老4年(720)の隼人の反乱の後,宇佐八幡宮で隼人の霊を慰めるために始まった「放生会」が,やがて正八幡宮(鹿児島神宮)にも伝わり,祭りの神輿が浜の市に下る途中,隼人塚に立ち寄り,供養の儀式を行ったと伝えられる。(正八幡宮関係文書・三国名勝図会)だだし,建立の目的をはっきり書いた文献・考古資料などは発見されていない。
隼人塚の命名
江戸時代までは,現在地の「隼人塚」の名称は見当たらず,明治時代になり,『国分の古蹟』(明治36年・1903)で,鹿児島神宮神官の桑幡公華氏が「隼人塚,一名熊襲塚」と命名した。これ以後,隼人塚の名前が定着していったようである。それ以前は菩提寺の塚,軍神塚(明治35年・陸軍参謀本部地図)などと呼ばれていたらしい。
四天王石像は 以下の配列
広目天 多耳天
■ ■ ■
増長天 持国天
隼人塚(はやとづか) アクセス・地図等の情報
〒899-5192 鹿児島県霧島市隼人町見次626-2
公共交通:JR隼人駅から徒歩で5分
地図:
GoogleMap Mapfan Mapion (42 568 410*66)
緯度経度:31度44分13.46秒 130度44分21.07秒
(日本地理系)
隼人塚史跡館
「隼人塚」の歴史や由来を紹介するためのガイダンス施設があります。
今回の説明は、この展示物を参考に記載しました。
隼人塚史跡館開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:月曜(祝日の場合はその翌日)12月29日〜翌年1月3日
入館料:小・中・高校生 70円、大学生・一般:130円
余談・・
隼人塚のすぐ後ろを日豊線が走り、背後には住宅やマンションが・・
人工物を入れなく撮るには、一番上の写真のアングル(右斜め)からしかありません。(電線は見えなかったことに。)
隼人塚(はやとづか)|鹿児島県霧島市隼人町
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